Paul McCartney by Philip Norman review – the Beatle finall

伝記作家フィリップ・ノーマンの最新作であるポールの伝記に対するガーディアン紙のレビュー。
https://www.theguardian.com/books/2016/may/28/paul-mccartney-the-biography-by-philip-norman-review

ガーディアンなので当たり前かもしれませんが、非常に英文的で、新聞紙的文体で、読んでいて面白かったので訳してみました。ついでに、やはり英国的。英国高級紙は語彙が難しくて、大変勉強になります。
新聞を読みつけていない素人訳なので、大変へたくそなのですが、雰囲気が伝われば。




フィリップ・ノーマンによるポール・マッカートニー − このビートルはやっと正当に評価された
〜ノーマンはジョン・レノンこそがビートルズのキーメンバーだという考えを一般的にした評論家のうちの一人だ。欠点はあるが力強い新たな著書の中で、彼はその誤りを認めた〜

(写真キャプション)洗練された空気…ツアー中のポール・マッカートニー。1966年。写真:Fiona Adams/Redferns。


フィリップ・ノーマンによるビートルズの伝記「シャウト!ザ・ビートルズ」は100万部以上を売り上げた。ジョン・レノンが殺害されて間もない1981年に出版され、ノスタルジアのうねりによって支えられた。うねりは、続いて、限界を超えた最初のビートルズ崇拝を引き起こし、それは今となっては全世界でのポップカルチャーにおける不動の重要なパートとなった。ノーマンはおそらく最初にビートルズ現象を文芸的観点から見た − 本の中で、ビートルズのキャリアを願望、獲得、保持、浪費の4つの時期に分け、ちらちら光る散文体で彼らの物語を語った。しかし、「シャウト!」には一つ重大な欠陥があった。ポール・マッカートニーへのぎらぎらしたバイアスだ。それによりポールはにやにやと作り笑いをした極端に自己中心的な人物として描かれ、それに対応してレノンには過度に寛大な眼差しが向けられ、ノーマンはのちに彼が「ビートルズの3/4」を代表していると主張した。


ノーマンは続いて「ジョン・レノン:その人生」を書いた。8年後の今となっては、この当時の新作はまったくのなまくらで不徳の致すところと紹介される。今、ノーマンの語るところでは、彼のマッカートニーへの手厳しさは、かつて一度は彼を称賛していたのみならず、なんとかしてそこまで行きたい、彼の場所にいたいと思った反動である。今、彼はこう書く―「正直になるなら、彼になりたいと願った何年もが、漠然とぼくに、この借りはいつか返さねば という思いを残した」。今、彼は寛大な視点を持ち、そしてマッカートニーの「黙認」(資料や情報の助力はするが、直接は関わらない)を得て、レノン本のもう一方の片割れを書き上げた。


ノーマンはうらやましいほどに熟練した肖像「書」家であり、その申し分のない能力で「左利きのベースプレイヤーの、その繊細な顔と雌鹿のような眼はともすると女の子っぽいが、夕方になると伸びてくるひげがあごのラインにかかりそれを打ち消す」という像を魔法のように想起させる。マッカートニーはグループの礼儀正しい「PRマン」を務め、「洗練」の空気を持ち、部分的には母メアリーにさかのぼって起因する礼儀作法への主張があったと彼は正確に観察する。メアリーが助産婦であったという事実は、マッカートニー家が近所より数段階級が上であると見られていたことを意味するとノーマンは指摘する。比較的中産階級であったレノンの代理母、ミミおばさんにポールは見下されていたにも関わらず。つまり初期のビートルズのストーリーは、単なるロックンロールの進化の顛末ではなく、古き英国的階級システムの段階的変化の話なのである。


この本のハイライトでは心を揺さぶられ、マッカートニーの強力なセンスに出くわす。イレブンプラス(注1)をパスしたあとに、リバプールインスティテュートで過ごした学生時代、ロンドンのセントジョンズ・ウッドで自分自身のために構築した、芸術家気取りの上品な結婚前の暮らし、1980年にマリファナ所持により逮捕され、日本の拘置所で過ごした10日間。この間、彼はどうやら共同シャワーを利用することにして、「When the Red Red Robin Comes Bob-Bob-Bobbin' Along」のような彼の父が愛した古いスタンダードナンバーの合唱会を、定期的にリードしたらしい。マッカートニーと後の妻リンダが、他の人間が不可能な状況だとみなしていたさなかに家庭生活を維持する才能についての描写もある。長く疎遠になっている仲間によると、「あんなに素晴らしい親はそれまで見たことがなかったし、その後も見たことがない」。


結果、この伝記はディテールに満ちており、完成されている。しかしながら、三つの大きな問題がある。ひとつ目は、物語がビートルズの盛衰にさしかかると、お話をマッカートニーの見方から語るという着想から離れがちになってしまうこと。そこで私たちが目にするのはよく知られているサーガだ。二番めに、ノーマンは自分の主題を様々な変遷―アイルランド移民の歴史や、リバプールと1960年代の社会文化的な推移―の中に置くのは上手いが、記録に残っている音楽について、むしろデイリーメールの署名記事風に書く傾向がある。セックス・ピストルズの『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』は断じて「国家の金切り声のパロディ」ではないし、ケイト・ブッシュの「この世のものとは思えないむせび泣き」が『嵐が丘』ではないし、オノ・ヨーコの耳を切り裂く金切り声は「明白にノーマル」などではない。これらの奇妙なタッチは、彼の主題(ポール)のキャリアと作品についても適用される。例えば、「グラムロック」という単語が何を示すか知っている人ならだれでも、マッカートニーのビートルズ後の乗り物であるウイングスが、決してそうではないことがわかるはずだ。


これは、おそらくこの本の最大の欠点にほぼ結び付くはずだ。マッカートニーの才能を無視しているのだ。彼の取材対象の、度肝を抜く、草分け的なベースプレイへの評価が全く見られないことは、あるいは最大の怠慢であり、不可解だ。同様に、1964年ごろに花開き、間違いなく1969年に―過小評価されているがアビーロードとレット・イット・ビーでの働きで―ピークに達した作曲の才能についても、到底十分な注意は払われていない。それに関連して、マッカートニーの1970年代末と80年代を大きく定義した不振と真剣に向き合うことに失敗している。ノーマンはかつて、マッカートニーのアウトプットと「彼がやってみさえすればできる」ことのギャップを嘆き悔やんだ。もしかすると、今、ポールの「黙認」によって投じられた影のおかげで、ビートルズの解散後に次々にリリースされたものをただ説明するし、偽りの賞賛を与えることで、かえってそれらをこき下ろしがちになっているのかもしれない。


しかし、―マッカートニーのヘザーミルズとの不毛な結婚にささげられた骨の折れる80ページにもかかわらず―、ノーマンはなお、しょっちゅう誤解されがちな男についての、心を打つ研究を届けている。最も強く浮かび上がってくる意図は、こうも超現実的な人生を送ってきた人間にしては、マッカートニーは驚くべき「日常的な」モラルを長らく持ち続けてきたということだ。最初の4人の子どもたちをステイトスクール(公立校)に確かに通わせ、彼らをスポイルしないように注意を払った。報じられたケチな話の数々は、おそらくビートルズのキャリアの最後の最後において彼が証言しているように、幸福なカオスを過ごしたことに原因を帰することができるだろう。それは、ノーマンの彼の気前の良さについてのレポートによって相殺されて余りある。彼は、ホームタウンに選んだサセックスの地域病院を救うためのキャンペーンと新しい医療センターに100万ポンドを投じた。ハンブルグ時代のビートルズの古い仲間の11か月の娘の治療のためには、合計20万ドル(13万7千ポンド)を支払った。


結果として非常に異なった二つの人生を比べるのは、おそらくフェアではないが、次のように言える。レノンは、対照的に、毛皮のコートのコレクションのために用意されたエアコンの効いた部屋のある、裕福なニューヨークのアパートメントビルにこもって彼の晩年のほとんどをすごした。そして、しばしば占星術師やカバラ数秘術師にいわれた通りのことをした。その意味などでは、この本はなかなか消えない不均衡を正すものなのだ―最初の段階で物事を捻じ曲げた人物のひとりは筆者自身であるという興味をそそるねじれをもって。



(注1)このへんをご覧いただくか、「11プラス イギリス」とかでググってください
http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB


(余談)
私は評伝やノンフィクションの類は好きなのです。当然筆者の人間性が反映されるし、公平とは言い難いビューが提示されることも多いと思うのですが、それ込みで楽しんでいます(伝記作家その人の思想やポジションについても知っておく必要はありますが)。
詳しくはありませんが、英米のニュースや署名記事は立ち位置をはっきりさせますよね(違ったらすみません)。アンカーやライターがどういう色なのか知ったうえで、取捨選択して楽しむのがいいのかな、と私は思っています。色が乗った方が、断然、論としては「面白い」ですよね。そこから始まる議論もあるし。


ノーマン氏のビートルズ評伝については、アマゾン.jpのレビューだと歯牙にもかけられていないというか、感情的な批判が多かったように思えたのが気にかかります。上記のような音楽や才能への無理解があるから、ファン心理として、全否定したくなるのかな(わたしも5,6段目は訳しながらムカッとしました)。それとも、もしかしたら特にビートルズ世代の人(って言っていいかわかりませんが)にはノンフィクション作家を一段下に見る傾向があるのかもしれませんね。とにかく、自分で読んでみなければ。。


(さらに余談)
別に多くの本やインタビューを熱心に読む必要はないですが、ノンフィクション全般やライター全般を下に見たり、露骨に軽視する態度に出くわすとちょっと悲しくなります。確かに評論とは玉石混交なものかもしれませんが、感情を言葉で確認したり、思考と感覚の間を行ったり来たりしたい人間もいるのだよ。

たまに、音楽なんて曲がよければ作者や演者のバックグラウンドや人間性には興味がないとかいう意見を見聞きしますが、私にとっては本気で言ってるの?って感じです。音楽って究極的には作者や演者との対話ですよね?あまり文字によってミスリードされては本質を損ないますが、バックグラウンドを知ることは相手への理解の助けになると思っています。もちろん最終的には曲やライブを通じて自分で感じるものですが…(きちんと聞いていれば、あまりに的外れな評論は、そうとわかるはず)